違いのわかる人になりたい
「これとこれの違いがわかるか?」
と聞かれるとどうするだろう?
「うーん。難しいけど、ここが違うんじゃない?」
と、無理やりでも違いを見つけようとするだろう。
「実はこれ、違いがないんだ。同じものなんだよ」
と告げられると、人は怒るものだ。
あなたは違いがわかる人ですか?と質問されたらこう返す。「もちろんわかる」
なぜならこうだ。
スーパーに行ってコーヒーを買おう。棚にはいろんな種類のコーヒーが並んでいる。豆だったり粉だったり、ブラジルだったりアフリカだったり、モカだったりキリマンだったり。
違いがわかるかい?もちろん。だってパッケージが違うじゃないか。名前が違うじゃないか。書いてることが違うじゃないか。見ただけでわかる。そもそも商品なんだから、違いを出して売るものだ。
そうじゃないよ。味の違いがわかるかい?もちろん。味が違うから別の商品として売っているんだろう。同じ味なら同じと書く。
そうじゃなくて、どれが甘いとか苦いとかわかるかい?もちろん。コーヒーはほとんどが苦い。そのなかでちょっと甘いかどうかの違いだろう。でも言っておくが、お前の感じる甘さとわたしの感覚は同じではない。
そもそも「違いがわかるか?」と聞かれた段階で「あぁ、違いがあるのか」と認識する。そのため「違いがあるもの」として扱うのだから、違いがあるとわかっている。
「違いがわかるか?」と聞かれて「実は同じもの」と答えられたら、わたしはこう言う。「違いがないのであれば、違いを探させるな」だが、いずれにせよ違いはわかる。
コーヒーを2杯いれる。どちらもまったく同じもの、同じ淹れ方だ。違いはないのか?いいや、時間差がある。どうやったって時間差は生まれる。また、カップが違う。どうやったって同じカップに同時に2杯いれることはできない。
りんごが2つある。見た目まったく同じもの。産地も時期も木も同じもの。違いはないのか?いいや、場所がちがう。右にあるか左にあるか、奥にあるか手前にあるか。また、物理的な構成要素が違う。同じ遺伝子だとしても、質量、細胞の数、付着物が違う。3次元で生きる私たちにとって、どうやったって同じものを同時に並べることはできない。
つまり「違いはわかるか?」という問いの答えは、どうやったって「違いはわかる」